
倒幕の裏側のヒロイン(幕末の若き志士たちの精神を支えた)はナント!!!60歳の未亡人?歌人の望東尼(もとに)
2023年のダンスのレッスンの曲が「オーバードーズ」(過剰摂取の意)で、もちろんですが、おもしろきインストラクター☆にオーバードーズ、ハマっていましたところ、外面的な印象が、「高杉晋作」の末裔⁈と、妄想を抱いてしまい、幻覚ぎみになりました。(ご本人確認後、全くの誤解でしたが、)どうしても深掘りしてしまう性格上ももこ?人生初✡大嫌いな日本史特に幕末にオーバードーズし、「高杉晋作」の恩師、「吉田松陰先生」の大和魂の境地に無学ながらふれ、久々に?のたましいぶっ飛びました。
さらに29歳で逝かれ、日本(やまと)のために はじめは、たったの80名程の兵で長府の『功山寺』にて挙兵、身分制を超えて集まった有志(奇兵隊)を率いて、一見、無謀(狂気)とも言える巨大勢力徳川幕府に挑んだ「高杉晋作」に短くも濃厚な人生に想い馳せました。
なぜなら、彼「高杉晋作」法名「東行」は船が大好きでした。
ももこ?の自宅からは、北九州のてっぺん、山口県の山々、響灘から行き交う大型タンカー船、豪華客船、クルーザー、釣り小型船舶etc.が、天候さえ良ければ、毎日平和に眺めていられます。
ある意味?
「オーバードーズ」したことで、
この海上近辺(響灘、関門海峡)で、日本の歴史がどよめいていたことを...。
無学なももこ?(-_-;)教えていただきました。
『ありがとうございます。』(ブログで礼を語るももこ?)
そしてここが、重要!!!(主観たっぷりですが)
ももこ?も船、大好きです?「東行」との唯一の共通点。
気持ちなぜだか、通じてるんです?
そんな訳で、居ても立っても居られないので、北九州の自宅から、
関門海峡を経て、山口へ?いざ!!!行かん!!!
『東ももこ東行庵へ(お墓参り)』2023年8月27日

『東ももこ東行庵へ(お墓参り)』にて、『幕末の女神・ヒロインこと望東尼(もとに)』の生涯に出逢う?史跡・高杉晋作墓所 花の寺 東行庵 山口県下関市吉田町1184


幕末の若き獅子志士たちをサポートしたことで、玄海灘の孤島『姫島』で幽閉された、60歳未亡人の望東尼(もとに)。
流刑の地で、思いもよらない、天晴れ(あっぱれ!)な史実があった。
日本版アラビアンナイトのストーリー⚔のごとくヒロイン望東尼を
性差年齢を超えた敬愛の朋友「高杉晋作」法名「東行」が、救出????冒険シンドバット過ぎる~?これぞ!大和魂∞素晴らしい?
これより以下の文章は日本経済新聞のヒロインは強し(木内昇)東行庵出版『法灯を継ぐ』より抜粋しています。

野村 望東尼 信念曲げず志士たちを感化
「おもしろきこともなき世に おもしろく」と幕末に生きた長州の奇才、高杉晋作は詠んだ。この頃すでに結核を患っていた彼の側には、野村望東尼という年齢六十を過ぎた尼僧がいた。彼女は高杉の句に下の句を添える。「すみなすものは心なりけり」と。
野村 望東尼 勤王活動に身を投じる
1806~67年。福岡藩黒田家の家臣、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれる。名はモト。二川相近のもとで和歌や書道を学ぶ。野村新三郎貞貫と結婚。四人の子供を授かるが次々と亡くなり、貞貫と先妻の長男に家督を譲り40歳で平尾山荘に隠居。安政六年(59年)、寡婦になると剃髪して仏門に入る。文久元年(61年)上京、以来勤王活動に身を投じていく。
だがこうした勤王活動が仇(あだ)となり、六十歳の折、望東尼は姫島という玄界灘の孤島へ島流しにされてしまう。粗末な牢に幽閉され、老体は衰弱の一途を辿(たど)る。これまでか、と諦めかけたところへ、高杉が立ち上げた救出隊が助けに来るのである。若き壮士たちが自分のために決起し、命懸けで牢を破って救い出してくれる--ひとりの女の人生で、これほどドラマチックな瞬間があろうか。
彼女は大政奉還が成ったひと月後に、この世を去る。最期まで志を曲げず、生涯愛した歌を残して逝った。
冬ごもりこらえこらえて
ときに
花さきみてる
春はくるらし
高杉をはじめ勇猛果敢な英才たちが、性差を超え人として崇めていたのが望東尼である。ある程度年齢がいったら、女子力にこだわるより人間力を高めて、彼女のように毅然として己の道を行きたいものである。女のたおやかさを内に保ったまま、これぞという男たちと信頼関係のもと互角に仕事ができれば、それもまた女冥利に尽きるのではないだろか。
[日本経済新聞朝刊女性面2013年7月20日付]

さらに深掘り、歌人?望東尼(もとに)??
高杉晋作は1864年11月10日、九州ヘ同士を募るために訪れたものの思うに事が運ばず、望東尼の平尾山荘を訪れ、10日間お世話になっております。
この10日間に高杉晋作は60歳の望東尼(もとに)を敬愛しました。
また望東尼(もとに)も3人の子供が早世したこたもあって、母性愛の発露ともなり、高杉晋作がここを去るとき、自ら、羽織、袷、襦袢まで、縫って贈るほどでした。
別れのとき、望東尼(もとに)は、
まごころをつくしのきぬはくにのためたちかえるへる衣手にせよ
と読んでいます。
のちに、望東尼は、高杉晋作など志士をかくまったことが、福岡藩からおとがめを受けることになり、1865年11月、現在の福岡県前原市沖の姫島に流罪となります。
それを知った高杉晋作は、次の年の9月17日、藤四郎など数名の使いを派遣し、屋の木に囲まれた、そまつな牢獄から救出し、
下関に迎えています。
病床ながら二人は再会しました。望東尼は、以後、高杉晋作が息をひきとるまで、枕辺で世話をしています。
(1部分省略)
望東尼と高杉晋作は、ともに和歌を詠み心を通わせていました。
高杉晋作が気分のいいときに
「面白きことなき世を面白く」
と詠むと、下の句を望東尼
「住みなすものは心なりけり」と継いでいます。
望東尼は、高杉晋作亡きあと、現在の防府市に移り住んでいます。そして、防府天満宮で、倒幕のため出世していく諸隊士を見送るため、7日間参籠(断食)したことから病となり、62歳の生涯を閉じ、同市の桑山墓地に葬られています。
以上 東行庵出版『法灯を継ぐ』より抜粋。


?沖縄出身☉ももこ?戦争を肯定はできません。
ただ、昔の時代と現代今の目の前のしあわせな自分、やっぱりご先祖様の精誠とご努力の土台に乗っかっているのを感じる…。
薄紙をはがすように少しずつ和している地球の平和。
おのずとと過去の人々に感謝のおもいが湧いてくるお墓参りでした。
『東ももこ東行庵へ(お墓参り)』
?最後までお読みになられた読者の皆様へ感謝と敬意を表します。
by フェアリーヨガ 東 ももこ?
おまけ
なぜか⁉手作り晋作餅は、しその葉に巻かれていて美味いよ?
